どういうとき、落書きをしたくなるのか?
ここ数日、落書きに関するニュースが多い。
イタリア・フィレンツェの大聖堂に落書きした日本人に対して、学生の停学処分や、野球部監督の解任等々。
すると昨日は、JR新幹線にド派手な落書きのニュース。
さて、「落書きをしたい気持ち」とは、どういう状況下か、しばし考察してみる。
第一に、気持ちが高ぶっている状態。
これは間違いないだろう。
五右衛門(おなじみルパン三世の彼)のような冷静さをもってしてまず落書きは出来ない。
第二に、自分の存在を知らしめたい、証を残したい心情。
本来、人間誰しも持ち合わせている心情のような気もする。
もちろん私も。
第三に、悪いこと(少なくとも一般的に良いことではない)と分かった上であえて犯行に及ぶ。
まあ、自分が被害に遭うわけではないし、誰かが消すだろうという安易な考え。
ざっとこんなものだろう。
今回の、野球部監督(30)の件。
奥様と名前を一緒に書いてハートマークをつけるなんていう行為は、まあ分からないではない。
カップルや若い夫婦が愛の証として書いたり刻んだりすることは良くあることではないか。
しかし、場所が悪かった。
なんといっても世界遺産登録地区だぞ!
思い出の山の樹木やら一緒に旅行した宿の『思い出帳』といった類に、愛の証を残せば良かったものを・・・。
教育に携わる者としてそのぐらい把握しておけ。
ただ、私の推測として、この監督ご夫婦は、映画『冷静と情熱のあいだ』を鑑賞していたのではないだろうか。
フィレンツェに旅行に来て、気持ちが高揚してついつい・・・と分からなくもない。
さて、問題なのは新幹線である。
新幹線に落書きなんて聞いたこともない。
とんでもない行為だ。
世の中や未来に対する若者の焦燥感や閉塞感から、こういった最悪の落書きが生まれるのだとは思う。
だけど、そのはけ口を他人に迷惑をかけるような行為でもって代償してはいけない。
それでは何も変わらないし、自分がみじめなだけだ。
以前にブログに書いた気もするが、学級崩壊は、落書きが最初のきっかけなのだから。
教室の小さな落書きを見過ごして、まっいいかと放っておくとクラスの秩序が乱れる。
このぐらいならいいかという認識がエスカレートする。
そうなると崩れるのは時間の問題。
これは、スラム街も同じ。
共同生活を営んでいる社会の一員として、やはり自分だけの生活空間ではないという認識をしなければいけない。
今、落書きをする若者が多くなっているのは『日本学級崩壊』を表しているのか。
しかしまた、落書きを消す運動を積極的に行っている方々も増えてきているのも事実である。
本当に頭の下がる思いだ。
まだまだ、日本も捨てたものではない。
イタリアはじめ、世界に日本の良さをわかってもらおうではないか。